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 昭和五十九年、暮れも押し詰まった十二月二十五日クリスマスの夜、築地二丁目の料亭「桂」で田中派の竹下登を中心とする勉強会の旗揚げ準備会が極秘裡に開かれた。のちの創政会である。メンバーの人選は、竹下の後見人である金丸信が中心となり、竹下、小渕恵三、梶山静六とで行なわれた。
 年が明けてまもなく、二階は衆議院議員運営委員長に就任した小沢一郎に呼ばれた。その席で、打ち明けられた。
「じつは、先日、竹下さんを中心とする勉強会旗揚げの準備会が行なわれた。メンバーを人選したため、きみを誘わなかったが、旗揚げに参加してくれないか」
 二階は田中派の外様議員である江ア真澄の系列と見られていた。江アは田中派の会長代理として田中の名代的存在である。派内に勉強会結成の動きがあることを知られたらまずい。それゆえ、二階には声がかからなかったのである。
 二階は答えた。
「竹下先生を中心にした勉強会ができることは、大変、結構なことだと思います。しかし、田中先生の祝福をあびて出発すべきではないでしょうか。もし、それができなければ、結成式を延ばすべきです」
 小沢は眉をひそめた。
「なかなか、そうもいかないんだ‥‥‥‥。一週間のちに、また会おう」
 一週間後、二階はふたたび小沢のもとを訪ねた。
 小沢は訊いてきた。
「どうだ、いっしょにやってくれるか」
 しかし、二階は、いくら小沢からの誘いとはいえ、なかなか踏ん切りがつかなかった。
「よく考えたのですが、やはり、この間の考えと変わりはありません。田中先生の祝福をあびて、出発すべきです」
 そうこうするうちに、昭和六十年一月二十八日、毎日新聞の朝刊に『竹下氏が政策集団を旗揚げ』というスクープ記事が躍った。
 翌二十九日、それまでの創政会側がとってきた極秘行動が白日のもとにさらされると、田中は、怒り狂った。
「おれは佐藤(栄作)が派閥をやめると言ったからこそ、田中派をつくったんだぞ。竹下はおれが派閥をやめないと言っているのに、それでもつくりおって‥‥‥‥」
 田中の腹心である木曜クラブ会長の二階堂進をはじめ、会長代理の江ア真澄、事務総長の小沢辰男、田中の秘書の早坂茂三、佐藤昭らは、創政会の参加を表明した議員の個別の切り崩しをはかった。
 一方、創政会のメンバーは、メンバー集めに躍起になった。
「事が公となったからには、一刻も早く人数を増やすしかない」
 二階のもとにも、小渕恵三や創政会の中核メンバーから次々に誘いの電話が入った。
 しかし、二階は丁重に断った。
「勉強会をつくることは賛成です。しかし、田中先生の祝福を浴びる形で出発できなければ、いまは参加できません」
 二月七日午前八時、砂防会館別館三階の田中派事務所で、ついに創政会の設立総会が開かれた。出席者は、衆議院議員二九人、参議院議員一一人の計四〇人であった。
 それから二十日後の二月二十七日、田中は突然、自宅で倒れた。病名は、脳梗塞であった。この日以来、田中は、政治の表舞台に復帰することなく政界を去ることになる‥‥‥。
 三月初め、二階のもとに、奥田敬和から電話がかかってきた。奥田は、田中の「鉄砲玉」の役割を一貫して果たしてきた。田中の意向を聞き、それを派内の幹部、中堅を問わず伝えてきた。いやな役目が多かった。そのため、田中に近いとされ、現職の郵政大臣だったこともあり、創政会の準備会には誘われなかった。むろん、設立総会にも出席しなかった。が、そうかといって、二階堂や江アらとも立場を異にしていた。いわゆる、中間派であった。
「今度、アフリカのトーゴで列国議会同盟(IPU)会議が開かれる。おれは、その団長として出席するんだが、きみもいっしょに行かないか。すぐに返事をくれ。なぜ、きみを誘ったかは、アフリカへ行ってから話す‥‥‥‥」
「日数は、どのくらいですか」
「会議のあとエチオピアを視察すると、十六日間だ」
 二階は考えた。
〈一回生の私が、十六日間も国を離れるわけにはいかんな‥‥‥‥〉
 二階は即答を避けた。
「申し訳ありませんが、日程の調整もありますので、しばらく時間をください」
 数時間後、ふたたび奥田から電話がかかてきた。
「どうだ、考えはまとまったか」
 二階は、思案した末、この機会を逸したら、アフリカへ行くチャンスはないかもしれないと考え、同行する旨を伝えた。
 二階ら議員団を乗せた飛行機がコートジボワールに向けて成田空港を飛び立った。その機中、二階は奥田から打ち明けられた。
「おれが、なぜ、きみを誘ったのか、知っているか」
「いえ」
「じつはな、郵政大臣を退任したあと、すぐに田中のオヤジに挨拶にいったんだ。そのとき、オヤジに、こう言った。『一人前になったとはいいませんが、大臣を無事に務めさせてもらいました。これから先は、派内の若いひとのために力を尽くさないといけないと考えています。だれを応援したら、いいでしょうか』と。そしたら、オヤジは、『今度、和歌山から出てきた二階を手助けしてやってくれ』と言った。それが頭に残っていたんで、きみを誘ったんだ」
 二階は感謝の気持ちでいっぱいだった。
〈田中先生は、そこまで心配してくださっていたのか‥‥‥‥〉
 二階は列国議会同盟会議に出席後、超党派の国会議員団とともに飢餓に苦しむエチオピアを訪れ、現地を視察した。帰国後、直ちに「日本・エチオピア友好議員連盟」を設立した。奥田を会長に、二階は事務局長に就任した。二階は奥田から外交のイロハを教わっていった。
 昭和六十二年六月三日、ホテル・オークラにおいて、「竹下先生を総裁選に推薦する会」が開催されることになった。創政会の中核隊は、この日を実質的な竹下派旗揚げと秋の総裁選に向けての竹下の出馬表明の場にしようともくろんでいた。
 田村元、奥田敬和を大将格とする中間派の議員は、こぞって参加することを決めた。
 しかし、二階堂グループの江ア真澄、小坂徳三郎、山下元利、田中直紀らは、そろって欠席することを決めた。
 その日、二階は江アに電話を入れた。
 二階ら中間派の若手議員は、竹下派に参加する意志を固めていた。
 二階は思っていた。
〈最後まで田中先生に尽くすことが、筋かもしれない。しかし、われわれ国会議員は、政治の流れをみきわめて、郷土の期待にも応えなければならない。苦しい選択だが、やむをえない〉
 しかし、なかなか二階堂グループの幹部に打ち明けられなかった。二階は、まわりにせっつかれた。
「二階さんは、江ア先生と親しいんだから、報告してきてくださいよ」
 二階は大役を担い、これまで六度も江アに会った。が、いざとなると、切り出せないでいた。
 二階は思い切って、電話で打ち明けた。
「われわれは、今日の竹下先生の候補擁立集会に参加します。ご了解を頂きたい」
 江アは答えた。
「おれは、二階堂さんと行動を共にしないといけないので参加はできないが、きみはしっかり頑張れ」
 二階は江アの了解を得ると、直ちに小沢一郎に電話を入れた。
「遅くなりましたが、これから参加させて頂きます」
 この日は、田中角栄を含めた田中派の議員一四一人中、代理出席を含めなんと一一八人もが集まった。
 一か月後の七月四日、田中派が分裂し、竹下派経世会が発足した。

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