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2001年11月

保守党幹事長
衆議院議員
二階 俊博

 奥田敬和先生が天国に旅立たれて、早いもので、三年と四ヶ月の歳月が過ぎ去りました。
 

 不思議なことに、私たちの心の中に、先生は、今も鮮明に生き続けておられます。
 

 八十五年、アフリカのトーゴ共和国で開かれた列国議会同盟(IPU)の団長の奥田先生から、一緒にアフリカに行かないかとのお誘いを頂きました。十六日間の海外出張に躊躇している私に「何故キミを誘ったかはアフリカへ行ってから話す」。熱心なお誘いをうけて超党派議員団に参加させていただくことになりました。奥田先生は、「自分は郵政大臣を終えて、一人前になったとは言いませんが、これから少しは後輩のお世話をしなければならないと思っている。ついては誰の面倒を見ればいいでしょうか」と田中角栄先生に尋ねたところ、「今度、和歌山から出てきた二階君を頼む」との事であった。「オヤジさんとの約束を果たす為に君を誘った」とのことでした。私は、その時、コートジボワールの首都、アビジャンに立ち寄り、さらに飢餓で苦しむエチオピアのメケレを訪れました。帰国の後、奥田先生を説得して「日本コートジボワール友好議員連盟」「日本エチオピア友好議員連盟」の設立を呼びかけ、何れも奥田先生が初代会長に就任され、私が事務局長に指名され外交の手ほどきを受けました。今日、令息の健代議士にエチオピア議連の事務局長をお願いし、父子二代にわたるご活躍に大使も感銘を深くされておられます。奥田先生は自らにも、仕事にも厳しい人でした。しかし、先輩や同僚、そして部下にはとても思いやりのある義理、人情の人でした。

 選挙制度の改正案で、私が他県へくら替えの案が発表され、とても不満に思っていました。竹下派の事務総長の奥田先生は、このことを心配されて、「いざとなれば僕の金沢の選挙区を地元の皆さんの了解を得てキミに譲るからそんな小さいことで文句をいうな! キミが小さく見える。」次は、和歌山二区の定数三が人口減少を見越して一減となった時のことです。「オレがキミの選挙区に張り付いて応援するから心配するな」そして、海部内閣で解散総選挙の直前に、当時、奥田自民党国対委員長から、総理の欧州への訪問に同行を命ぜられました。選挙が心配で返事をしないでいると私の地元に自分から乗り込んで来られて「私は若い政治家に東西ドイツの合併や欧州の『連帯』の台頭等、百年に一回か二百年に一回の歴史の大転換期を肌で、勉強させようと考えている」『この際選挙のことは私たち後援会に任せて、総理に同行してヨーロッパへ行って来い』と言ってやってくれませんか!」
 

 満場は、大拍手となりました。私が頼みもしないことを絶妙のタイミングで発言される。政界での兄貴分と言われる奥田先生ならではの言動であります。
 

 強気で喧嘩っ早いところは先生の魅力でありますが、同時にやさしいお人柄は、想いおこすたびに涙が浮かぶような思い出があります。
 

 それは、羽田元総理が太陽党をつくられ、行動を共にするため奥田先生が新進党を離党を決意された時のことであります。

 「オレの病状のこともキミも薄々知っているだろう・・・。残りの命を羽田君にかけてやろうと思う。総理までやった男だ。一緒についていってやろうと思う」
 

 「ボクは誰も誘わない。だから止めてくれるな!党なんて若い者だけでは出来ない。うぬぼれと思うかもしれないが、今日まで培った多少の人脈が与党にも野党にもある。羽田君のために燃焼し尽くしてやりたい」
 

 弱々しくなられたお声をふりしぼるように話される先生に対し、私は黙ってうなずくより仕方がありませんでした。ご無理をされなければいいが・・・。
 

 先生が急逝された朝、先生のご遺体は雨の中を想い出多い国会議事堂を静かに一周されました。駆けつけた超党派の国会議員や政党や国会の職員の皆さんに見送られ、国政との最後の別れを告げられたのでした。
 

 そして、多くの同志の皆さんが待つ郷里石川県へと静かに向かわれたのでした。
 

 熱血の政治家、正義感にあふれ、しかも人情豊かなロマンの人、奥田先生のご遺志が今、令息健君に見事に継承されています。外国へも度々ご一緒させて頂いた奥様のご健勝と健代議士の今後、一層のご活躍を心からお祈りしつつ、安らかでありますよう!

 

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